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よせばよいのに、京に向かって


by princetown
江戸から35番目の宿

旧東海道は、JR東海道線より可なり内陸に入り、名鉄・名古屋本線に沿っている。
豊川稲荷や豊川禅寺が建つ。豊川神社には、素敵な三重塔が建つ。

東海道と姫街道に分かれる分岐点には壮大な常夜灯が建つ。

御油は、当時、「五井」とも言われていて、宿内総家数は、316軒、本陣3軒、旅籠62軒。

宿を過ぎるとおよそ600mにわたって「御油の松並木」が続く。昭和19年(1944)に国の天然記念物に指定された。

明治以降は、国鉄や国道の建設からはずれ、また戦災など、大きな災害にもあわなかったため、江戸時代の街並みが保存されている。

次の赤坂宿には1.6kmだ。
# by princetown | 2005-09-23 15:31
江戸より34番目の宿 日本橋より約289km

吉田と言われても、いったいどこに存在するのか。いまのわれわれは豊橋と言うとすぐ分かる。
大体この吉田周辺の地は鎌倉時代には東海道の往来が盛んだった。

広重の「豊川橋」の絵を見ると、吉田城がまさに完成直前。とび職人が足場を作り、天守閣の工事をしている。

豊川は大きな川で、江戸時代には大きな帆船が出入りしていたと言う。近くの保存館には当時の「問屋場復元模型」があり、繁盛していたことがしのばれる。

飯盛り女の多いことでもしられ「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が」と当時謡われた。 

本陣2、脇本陣1、旅籠65。東海道としては、大きな宿場のひとつだった。
# by princetown | 2005-09-07 16:51 | 日記、一般
江戸より33番目の宿 約283km

遠江国から三河の国に入った最初の宿場だ。

街中に、大きな看板がある。それによると、


開設当時は二川村と大岩村の二ヶ村で、一宿分の業務を行っていましたが、1644年、両村は現在地に移転して、二川宿と加宿大岩町となり、東海道五十三次中33番目の宿駅として業務を行うこととなりました。

1843年には、本陣、脇本陣それぞれ一軒、旅籠屋が38軒、人口は1468人で、家数は328軒でした。

現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。

豊橋市二川宿本陣資料館
妙泉寺の宿内に文人が立てた紫陽花塚があり、芭蕉の句「あちさいや 藪を小庭の別座敷」が刻まれている。
# by princetown | 2005-08-12 16:17
江戸から32番目の宿

この宿は、遠江国の西のはずれにあり、東海道線より離れているので、静かな佇まいがいまでも残り、昔がしのばれる。

潮見坂を上りきったところに、「潮見坂公園跡」がある。むかし、徳川家康がここに茶室をつくり、武田勝頼を破って尾張に帰る途中の織田信長をもてなしたと言われている。

本陣1、脇本陣1。 今は「跡」の石柱があるのみだ。
# by princetown | 2005-08-06 11:17
江戸より31番目の宿 江戸より270km

浜名湖を渡りきると新居関所跡がある。
今では関所が復元されて、往時の規模の大きさをうかがうことができる。

東の箱根関所とともに東海道の旅人・文物の往来取り締まる新居関所は、当初関所奉行が置かれ、幕府が直接管理していた。

新居関所は、全国に53の関所の中で、最大の規模を誇り、「入り鉄砲に出女」。つまり江戸への武器の流入と、江戸からの西国大名家子女の脱走を中心に取り締まったと言う。

復元された関所は、いくつかの部屋に切られていて、「出女」の取締りの図は、可なり厳しかったことが想像できる。

この関所は、今切関所とも言われて、「海の税関」、今切湊に出入りする廻船の検問をした。
# by princetown | 2005-07-19 21:01