よせばよいのに、京に向かって


by princetown
江戸より30番目の宿 日本橋から263km

松並木が見事だ。道の左側に常夜灯が3箇所ある。本陣跡が2、脇本陣が1。
ここは浜名湖の東側に位置するのだが、昔、湖南の陸はつながっており、浜名湖は淡水湖だった。それが1499年の大地震で陸が切れて、外海とつながった。

そこで、次の宿「新居」まで約4kmを船で渡った。今は、中間に、弁天島があり、朱塗りの橋が弁天橋と言う。

常夜灯は、旅人の夜間の便を図るために街道の分岐点や道印の役目を果たした。また、渡船場では、灯台になったりもした。
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# by princetown | 2005-07-13 18:06
浜松宿には箱根宿とならぶ6軒もの本陣があったが戦災で焼失した。

見付から浜松へ、昔は天竜川を船で渡った。昼食は浜松の老舗「さかな家」で、うな重を食べました。

浜松は、家康の遠州支配の拠点で、領内の駿府と岡崎を結ぶ伝馬制を始めて、浜松宿の基礎となったと言う。

天下を取った家康だが、三方原の戦いで敗れて逃亡した家康はその途中塩売りの蓑笠を借りて追っ手の目をごまかし、浜松城に入ることが出来たとの伝承がある。

本陣6、旅籠94、人口:6000人。当時としては賑やかな町だったに違いない。 
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# by princetown | 2005-07-04 18:01
見付とは、富士山を見つけたから・・・。

本当かどうか知らないのだが、京から江戸に下る旅人は、ここの宿で、初めて富士山を見つけたのそうだ。富士山を「見つける」から見付の称はきたらしい。

見附で有名なのが、日本最古の木造洋風の小学校で、 1872年に、開校したもので、見つけの誇りだ。

江戸時代の画家・安藤広重は、天竜川を描いている。のどかな渡し風景だ。菅笠をかぶり船に腰掛ける女。立つったまま女性となにやら話をしている。天竜川には中洲があり、対岸からは別の船が4艘 到着。2人の旅人が、中州をこちらに向かって歩いてくる。季節は春だろうか、霞がかかっている。
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# by princetown | 2005-06-29 17:15
江戸から27番目の宿 江戸から230km

東海道53次の東からも西からもど真ん中の27番目にあたる。
広重の絵を見ると、見渡す限りの田んぼ。稲の刈り取りが終わり、遠くの田んぼ道を馬子がとぼとぼと歩く。

出茶屋では旅人が腰掛けて一服。お店の主が急のお客に、慌てて鉄瓶の湯を沸かす。なかなか火がついてくれず、駕籠かきが待ち疲れて寝てしまった。お休み処の立て看板に、すずめが一羽、不思議そうに湯沸しを眺めている。

のどかな原風景なのだが、今では見事な松並木が並んでいる。

当時の本陣は、田代本陣、中大田本陣、西大田本陣があったそうだ。

旅籠50、人口:840人。
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# by princetown | 2005-06-14 10:41
江戸から26番目の宿 

江戸から、歩いたもので220km。宿場の中心は掛川城。平成6年(1994)に本格的な木造の城として復元された。

城の歴史は、古く文明年間(1469-1487)に駿河守護大名・今川義忠が遠江支配の拠点として築いたもの。本陣2、旅籠30、人口:3400人。

お城の大手門は下部が木造でガッチリした造りで、上部は漆喰仕上げ、屋根には瀬戸瓦だが鯱がにらみをきかせている。

三層の天守閣も復元されて、訪れる観光客でにぎわっていた。
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# by princetown | 2005-06-07 19:04
江戸から25番目の宿

本陣1、脇本陣1、旅籠33、人口:750人。

佐夜の中山の急な七曲の坂を転がるように下るとそこが日坂だ。広重の絵を見ていると遠くに富士山が見える。

この日坂の地名は小夜の山中の「西坂」からきたようで、扇屋本陣跡には幼稚園が建っている。

金谷と日坂の間に「菊川宿」があった。二つの宿が離れているか、峠に差しかかるときには、旅装束を調える必要があったこと、また、休憩所してお茶を飲むことが出来た。

ただ、幕府は宿泊は認めなかった。正規の宿場を保護する為だといわれている。
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# by princetown | 2005-06-03 15:47
江戸から24番目の宿

本陣3、 旅籠51、人口 4000人 (天保14年)

今では大井川鉄道の出発駅があり千頭や寸又峡に行くことが出来るのだが、大井川の西側には、当時、番宿があった。島田宿と同じように、川越業務で人足10名が働いていたという。

牧之原のお茶畑が有名だが、これは明治時代に開拓されたもの、芭蕉の句碑には、

「道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり」

「馬に寝て残夢月とおし茶の烟(けぶり)」と詠んだ句碑が金谷坂石畳の路傍に立つ。

金谷宿の旧道を西へ、金谷坂石畳をのぼると牧野之原(諏訪原)に出る。更に石畳を行くと間の宿・菊川へ。

箭置(やおき)坂を上ると小夜の山中だ。こちらには「夜泣き石」がある。

「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の山中」という西行法師の歌碑がある。

七曲の急坂を下ると「日坂宿」に出る。
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# by princetown | 2005-06-01 12:50
江戸から23番目の宿。

島田と次の宿「金屋」の間には、「越すに越されぬ」といわれた大井川が流れている。

川幅が広いため深みが少ないのだが、宿駅制度が出来るまでは、旅人が勝手に浅瀬を選んでわたっていたという。

川越賃は勝手に当事者同士で決めていたらしい。人足はわざわざ深みを通ったり、転んだりして、法外な渡し賃を取っていた。

値段は、川の水位で決まり、股通しが700円、脇通しが1400円。水深が136cmになると川留めとなり、宿泊を余儀なくさせられた。

当時の人口は6700人。本陣:3、旅籠:48軒

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# by princetown | 2005-05-30 13:46
江戸より22番目の宿

江戸から歩いて195km。京の都までは500kmあるので、まだまだ。

江戸を出たときには30人ほどいたのが、ぐっと少なくなり、7人のサムライ。一緒に歩いてくださる講師の方もがっかりしていることだろう。

毎回宿場の資料を自費で作成して、歴史の説明をしてくださり、頭が下がります。
持田講師は元銀行マン、定年で第2の職場を斡旋されたそうだが、ソロバン片手の人生はお断りとして、この道を選んだのだ。日当は宿代、旅費を含めて1万円。

余程、歩くことや歴史が好きでないと出来ない。まさに、ボランティアの先駆けだ。

これといった話題のある宿場ではないが、本能寺の変で、堺にいた家康は追っ手を逃れて伊賀を越え伊勢に入り、野武士の襲撃を受け、百姓の孫三に助けられた。感謝の印として、家康は藤枝の白子を与え、諸役も免除され、街は繁盛したといわれている。
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# by princetown | 2005-05-23 13:37
岡部宿 江戸より21番目の宿

本陣2、脇本陣2、旅籠2~7。
岡部は宿場としては一番小さい。何しろ住む人が少ないので、徳川幕府がなかなか認めなかったという。それでもやっとのことで、53番目にできたので、最後の宿場と言うことになる。

源頼朝が鎌倉と京都を結ぶ鎌倉道を整備して、岡部宿を設けた。

とはいえ、徳川家康が天下を統一したときに東海道に伝馬制ができ、岡部は宿駅に指定された。

在原業平は伊勢物語で、難所の峠で「駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にもひとに逢わぬなりけり」と詠んだ。

西行の笠懸松と言う伝説も有名だ。つまり、弟子の西住が雲水のあるまじき行為として破門。形見として笠と筆跡を渡し、袂を分かった。

「西へ行く雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して」との時世を西行から渡された笠に書き残し客死してしまった。街道には多くの足跡を残した西行法師であった。
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# by princetown | 2005-05-18 16:19