よせばよいのに、京に向かって


by princetown
江戸から40番目 349km

知立宿と鳴海宿との間には有松の町並みが素晴らしい。
江戸末期から明治初期の建物が残っており、町並み保存地区に指定されている。有松は絞り業でも有名だ。

桶狭間の戦いも有名だ。永禄3年(1560)織田信長が、今川義元の陣地を急襲して討ち取った場所と言う。数千人が戦いあった場所にしては、やけに狭い感じだ。とかく話は誇張されるものだ。せいぜい100~200騎が討ちあいしたのではないか。

鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代には、織田・今川両勢力の接触地点が設けられた。江戸時代には、木綿の鳴海絞が東海道の旅人に名産品として売られた。

本陣 1、旅籠 68軒、人口 3643人。
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# by princetown | 2005-12-25 15:50 | 日記、一般
江戸から39番目の宿 

本陣1、脇本陣1、旅籠35.
町の中に大きな立て看板を発見。「知立市 観光めぐり」と書かれていて、観光地図が分かりやすく描かれていた。
物の本に、「ちりふの町の右の方に長き池あり、神の池なり。鯉・鮒・多し。依って名と成すと伝えられる」。

知立問屋場跡の看板を見つけた。無量寿寺はかきつばたで有名なところで、平安の歌人・在原業平がこちらを訪ねたとき、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびおしぞおもふ」と詠んだ。

その業平の木造を安置した無量寿寺。周辺は5月になると池全体が紫色に覆われる。

やがて古木が良く残る松並木がある。これが有名な知立の松並木。
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# by princetown | 2005-11-28 18:07
江戸より38番目の宿 (江戸より約318km)

名鉄名古屋線に沿っていた東海道は、岡崎に入ると少し離れて北側に蛇行する。
この岡崎は何しろ徳川家康が浜松城に移るまで本拠にしていた城下町だ。家康は外敵から守るために街道を直線で結ばず、少し進むと右に曲がり、左に曲がり、地元民でも分からなくなるほどなので「二十七曲がり」と呼ばれていた。

岡崎宿には本陣,副本陣跡があり往時は、伝馬制度がしかれて、公用で旅するものには、伝馬80、人足297人、駕籠100挺が常備されていたと言う。

街道沿いには、「東海道岡崎宿 西本陣跡」や史跡・太平一里塚」の案内板が建っている。岡崎城跡は、現在「岡崎公園」となり、岡崎城が復元された。

公園にはからくり時計が立ち、浄瑠璃姫が飛び出してくる。

お腹が空いたので、茶店「いちかわ」に入った。八丁味噌田楽と素朴な菜飯の組み合わせだった。味噌田楽は、香ばしく焼いた豆腐に八丁味噌ベースのたれをぬったものだ。八丁味噌の歴史は古く、戦国時代には兵士の糧食としても珍重されたと言う。 
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# by princetown | 2005-10-21 13:50
江戸より37番目の宿 約306km

知っていますか。鎌倉街道があったことを・・。そうなんです。家康が江戸に城を構えるまで、つまり、頼朝が鎌倉幕府を樹立して、京都と人々の往来が多かった頃、この宿は旅人の休息場として栄えました。

最盛期には、旅籠・茶屋などが100軒あり、飯盛り女が300人ほどいたそうです。

いま交番があるた辺りが、本陣あとで、工事中。携帯トイレがおいてあるのがなんとも不思議な感じだ。

芭蕉が「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と詠んだ句碑がある。「西の棒鼻」付近に立ち寄った。棒鼻とは、出入り口のことで、石垣があり、人の出入りを見張っていたのだろうか。

むらさき麦は、この地方の名産で、穂がむらさき色になるそうです。
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# by princetown | 2005-10-12 20:59
江戸から302km

東京の赤坂は、この地の人が移り住みついたのではないかと、思ってしまうんです。
赤坂の料亭は、有名ですか、赤坂宿は「飯盛り女」で当時とても有名だったのです。

何しろ手前の「御油」からは歩いてすぐだと言うのに、何でこの地に宿場が出来たのか。
所謂本陣や副本陣はなく、旅籠では少なくとも、2人から3人、もしくは、7~8人が昼間から化粧をして戸外に現れて、客引きをしていたと言うのです。

飯盛り女は、数倍の予備軍が待機していて、あるものは軒下に立ち、あるものは家の前においた縁台の上に座って悩ましげな顔と美しい言葉で、旅人を招きいれたと。

赤坂宿は、歓楽街として有名となり、旅人のほかに、近郷近在の遊び客が多かったと言われ「御油や赤坂がなけりゃ親に感動受けやせぬ」と当時のはやり歌になったほどです。

栄華はいつまでも続くわけがありません、宝永6年の大火で、1055軒の表通りと、裏通りの245軒と、宿場の大半が灰燼に帰し、二度と復旧することがなかったそうです。

訪ねたときは、伊藤本陣跡のすぐ西隣に、昔ながらの連子格子を残す二階家が建っていて、江戸時代からそのままの状態で、営業を続ける大橋屋がわれわれを迎えてくれたのでした。

近くの関川神社の境内には、芭蕉の句碑があり「夏の月 御油より出でる 赤坂屋」と。
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# by princetown | 2005-10-03 21:56
江戸から35番目の宿

旧東海道は、JR東海道線より可なり内陸に入り、名鉄・名古屋本線に沿っている。
豊川稲荷や豊川禅寺が建つ。豊川神社には、素敵な三重塔が建つ。

東海道と姫街道に分かれる分岐点には壮大な常夜灯が建つ。

御油は、当時、「五井」とも言われていて、宿内総家数は、316軒、本陣3軒、旅籠62軒。

宿を過ぎるとおよそ600mにわたって「御油の松並木」が続く。昭和19年(1944)に国の天然記念物に指定された。

明治以降は、国鉄や国道の建設からはずれ、また戦災など、大きな災害にもあわなかったため、江戸時代の街並みが保存されている。

次の赤坂宿には1.6kmだ。
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# by princetown | 2005-09-23 15:31
江戸より34番目の宿 日本橋より約289km

吉田と言われても、いったいどこに存在するのか。いまのわれわれは豊橋と言うとすぐ分かる。
大体この吉田周辺の地は鎌倉時代には東海道の往来が盛んだった。

広重の「豊川橋」の絵を見ると、吉田城がまさに完成直前。とび職人が足場を作り、天守閣の工事をしている。

豊川は大きな川で、江戸時代には大きな帆船が出入りしていたと言う。近くの保存館には当時の「問屋場復元模型」があり、繁盛していたことがしのばれる。

飯盛り女の多いことでもしられ「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が」と当時謡われた。 

本陣2、脇本陣1、旅籠65。東海道としては、大きな宿場のひとつだった。
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# by princetown | 2005-09-07 16:51 | 日記、一般
江戸より33番目の宿 約283km

遠江国から三河の国に入った最初の宿場だ。

街中に、大きな看板がある。それによると、


開設当時は二川村と大岩村の二ヶ村で、一宿分の業務を行っていましたが、1644年、両村は現在地に移転して、二川宿と加宿大岩町となり、東海道五十三次中33番目の宿駅として業務を行うこととなりました。

1843年には、本陣、脇本陣それぞれ一軒、旅籠屋が38軒、人口は1468人で、家数は328軒でした。

現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。

豊橋市二川宿本陣資料館
妙泉寺の宿内に文人が立てた紫陽花塚があり、芭蕉の句「あちさいや 藪を小庭の別座敷」が刻まれている。
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# by princetown | 2005-08-12 16:17
江戸から32番目の宿

この宿は、遠江国の西のはずれにあり、東海道線より離れているので、静かな佇まいがいまでも残り、昔がしのばれる。

潮見坂を上りきったところに、「潮見坂公園跡」がある。むかし、徳川家康がここに茶室をつくり、武田勝頼を破って尾張に帰る途中の織田信長をもてなしたと言われている。

本陣1、脇本陣1。 今は「跡」の石柱があるのみだ。
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# by princetown | 2005-08-06 11:17
江戸より31番目の宿 江戸より270km

浜名湖を渡りきると新居関所跡がある。
今では関所が復元されて、往時の規模の大きさをうかがうことができる。

東の箱根関所とともに東海道の旅人・文物の往来取り締まる新居関所は、当初関所奉行が置かれ、幕府が直接管理していた。

新居関所は、全国に53の関所の中で、最大の規模を誇り、「入り鉄砲に出女」。つまり江戸への武器の流入と、江戸からの西国大名家子女の脱走を中心に取り締まったと言う。

復元された関所は、いくつかの部屋に切られていて、「出女」の取締りの図は、可なり厳しかったことが想像できる。

この関所は、今切関所とも言われて、「海の税関」、今切湊に出入りする廻船の検問をした。
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# by princetown | 2005-07-19 21:01