よせばよいのに、京に向かって


by princetown

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江戸より38番目の宿 (江戸より約318km)

名鉄名古屋線に沿っていた東海道は、岡崎に入ると少し離れて北側に蛇行する。
この岡崎は何しろ徳川家康が浜松城に移るまで本拠にしていた城下町だ。家康は外敵から守るために街道を直線で結ばず、少し進むと右に曲がり、左に曲がり、地元民でも分からなくなるほどなので「二十七曲がり」と呼ばれていた。

岡崎宿には本陣,副本陣跡があり往時は、伝馬制度がしかれて、公用で旅するものには、伝馬80、人足297人、駕籠100挺が常備されていたと言う。

街道沿いには、「東海道岡崎宿 西本陣跡」や史跡・太平一里塚」の案内板が建っている。岡崎城跡は、現在「岡崎公園」となり、岡崎城が復元された。

公園にはからくり時計が立ち、浄瑠璃姫が飛び出してくる。

お腹が空いたので、茶店「いちかわ」に入った。八丁味噌田楽と素朴な菜飯の組み合わせだった。味噌田楽は、香ばしく焼いた豆腐に八丁味噌ベースのたれをぬったものだ。八丁味噌の歴史は古く、戦国時代には兵士の糧食としても珍重されたと言う。 
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by princetown | 2005-10-21 13:50
江戸より37番目の宿 約306km

知っていますか。鎌倉街道があったことを・・。そうなんです。家康が江戸に城を構えるまで、つまり、頼朝が鎌倉幕府を樹立して、京都と人々の往来が多かった頃、この宿は旅人の休息場として栄えました。

最盛期には、旅籠・茶屋などが100軒あり、飯盛り女が300人ほどいたそうです。

いま交番があるた辺りが、本陣あとで、工事中。携帯トイレがおいてあるのがなんとも不思議な感じだ。

芭蕉が「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と詠んだ句碑がある。「西の棒鼻」付近に立ち寄った。棒鼻とは、出入り口のことで、石垣があり、人の出入りを見張っていたのだろうか。

むらさき麦は、この地方の名産で、穂がむらさき色になるそうです。
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by princetown | 2005-10-12 20:59
江戸から302km

東京の赤坂は、この地の人が移り住みついたのではないかと、思ってしまうんです。
赤坂の料亭は、有名ですか、赤坂宿は「飯盛り女」で当時とても有名だったのです。

何しろ手前の「御油」からは歩いてすぐだと言うのに、何でこの地に宿場が出来たのか。
所謂本陣や副本陣はなく、旅籠では少なくとも、2人から3人、もしくは、7~8人が昼間から化粧をして戸外に現れて、客引きをしていたと言うのです。

飯盛り女は、数倍の予備軍が待機していて、あるものは軒下に立ち、あるものは家の前においた縁台の上に座って悩ましげな顔と美しい言葉で、旅人を招きいれたと。

赤坂宿は、歓楽街として有名となり、旅人のほかに、近郷近在の遊び客が多かったと言われ「御油や赤坂がなけりゃ親に感動受けやせぬ」と当時のはやり歌になったほどです。

栄華はいつまでも続くわけがありません、宝永6年の大火で、1055軒の表通りと、裏通りの245軒と、宿場の大半が灰燼に帰し、二度と復旧することがなかったそうです。

訪ねたときは、伊藤本陣跡のすぐ西隣に、昔ながらの連子格子を残す二階家が建っていて、江戸時代からそのままの状態で、営業を続ける大橋屋がわれわれを迎えてくれたのでした。

近くの関川神社の境内には、芭蕉の句碑があり「夏の月 御油より出でる 赤坂屋」と。
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by princetown | 2005-10-03 21:56