よせばよいのに、京に向かって


by princetown

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見付とは、富士山を見つけたから・・・。

本当かどうか知らないのだが、京から江戸に下る旅人は、ここの宿で、初めて富士山を見つけたのそうだ。富士山を「見つける」から見付の称はきたらしい。

見附で有名なのが、日本最古の木造洋風の小学校で、 1872年に、開校したもので、見つけの誇りだ。

江戸時代の画家・安藤広重は、天竜川を描いている。のどかな渡し風景だ。菅笠をかぶり船に腰掛ける女。立つったまま女性となにやら話をしている。天竜川には中洲があり、対岸からは別の船が4艘 到着。2人の旅人が、中州をこちらに向かって歩いてくる。季節は春だろうか、霞がかかっている。
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by princetown | 2005-06-29 17:15
江戸から27番目の宿 江戸から230km

東海道53次の東からも西からもど真ん中の27番目にあたる。
広重の絵を見ると、見渡す限りの田んぼ。稲の刈り取りが終わり、遠くの田んぼ道を馬子がとぼとぼと歩く。

出茶屋では旅人が腰掛けて一服。お店の主が急のお客に、慌てて鉄瓶の湯を沸かす。なかなか火がついてくれず、駕籠かきが待ち疲れて寝てしまった。お休み処の立て看板に、すずめが一羽、不思議そうに湯沸しを眺めている。

のどかな原風景なのだが、今では見事な松並木が並んでいる。

当時の本陣は、田代本陣、中大田本陣、西大田本陣があったそうだ。

旅籠50、人口:840人。
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by princetown | 2005-06-14 10:41
江戸から26番目の宿 

江戸から、歩いたもので220km。宿場の中心は掛川城。平成6年(1994)に本格的な木造の城として復元された。

城の歴史は、古く文明年間(1469-1487)に駿河守護大名・今川義忠が遠江支配の拠点として築いたもの。本陣2、旅籠30、人口:3400人。

お城の大手門は下部が木造でガッチリした造りで、上部は漆喰仕上げ、屋根には瀬戸瓦だが鯱がにらみをきかせている。

三層の天守閣も復元されて、訪れる観光客でにぎわっていた。
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by princetown | 2005-06-07 19:04
江戸から25番目の宿

本陣1、脇本陣1、旅籠33、人口:750人。

佐夜の中山の急な七曲の坂を転がるように下るとそこが日坂だ。広重の絵を見ていると遠くに富士山が見える。

この日坂の地名は小夜の山中の「西坂」からきたようで、扇屋本陣跡には幼稚園が建っている。

金谷と日坂の間に「菊川宿」があった。二つの宿が離れているか、峠に差しかかるときには、旅装束を調える必要があったこと、また、休憩所してお茶を飲むことが出来た。

ただ、幕府は宿泊は認めなかった。正規の宿場を保護する為だといわれている。
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by princetown | 2005-06-03 15:47
江戸から24番目の宿

本陣3、 旅籠51、人口 4000人 (天保14年)

今では大井川鉄道の出発駅があり千頭や寸又峡に行くことが出来るのだが、大井川の西側には、当時、番宿があった。島田宿と同じように、川越業務で人足10名が働いていたという。

牧之原のお茶畑が有名だが、これは明治時代に開拓されたもの、芭蕉の句碑には、

「道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり」

「馬に寝て残夢月とおし茶の烟(けぶり)」と詠んだ句碑が金谷坂石畳の路傍に立つ。

金谷宿の旧道を西へ、金谷坂石畳をのぼると牧野之原(諏訪原)に出る。更に石畳を行くと間の宿・菊川へ。

箭置(やおき)坂を上ると小夜の山中だ。こちらには「夜泣き石」がある。

「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の山中」という西行法師の歌碑がある。

七曲の急坂を下ると「日坂宿」に出る。
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by princetown | 2005-06-01 12:50