よせばよいのに、京に向かって


by princetown

カテゴリ:日記、一般 ( 4 )

日本橋から416km

関は、鈴鹿の関が置かれていたところだ。
中世は関谷とも呼ばれて、東海道、伊勢別街道、大和街道が分岐した交通の要衝であったし、室町期には地蔵堂付近に関所があった。

地蔵さんは「振袖着せて奈良の大仏さん婿にとろ」と鈴鹿馬子唄に歌われるほど、美しいことで評判だった。

関所は織田信長により一時廃止されていたが、江戸幕府の宿場整備で、47番目の宿場として、また鈴鹿峠への入り口として繁栄した。

関宿は、宿場時代の古い建物が残っており、町並みは1.8kmが重要伝統的建物群保存地区に指定されている。地蔵院で抹茶を頂き、江戸期にタイムスリップ。福蔵院は織田信孝の菩提寺。

人口: 1942人、 家数: 632軒、 旅籠: 42軒、 本陣: 2軒
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by princetown | 2006-12-28 10:53 | 日記、一般
日本橋から401km

四日市から庄野に向かう途中に宿場がある。宿に入ると右側に往時の威風を漂わせたひときわ大きな旧家がある。これが小沢本陣跡だという。本陣跡の近くには明治の歌人で、万葉研究の第一人者である佐々木信綱の生家がある。宿のはずれに石薬師寺が立つ。聖武天皇の時代、秦澄によって開山、かつては大伽藍を形成していたが戦国時代にその殆どを消失。弘法大師が薬師如来像を素手で彫り開眼供養したと伝えられている。

宿内総家数:241軒、人口:991人、本陣:3軒、旅籠:15軒。街道でもっとも小さな宿場の一つ。
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by princetown | 2006-09-20 10:28 | 日記、一般
江戸から40番目 349km

知立宿と鳴海宿との間には有松の町並みが素晴らしい。
江戸末期から明治初期の建物が残っており、町並み保存地区に指定されている。有松は絞り業でも有名だ。

桶狭間の戦いも有名だ。永禄3年(1560)織田信長が、今川義元の陣地を急襲して討ち取った場所と言う。数千人が戦いあった場所にしては、やけに狭い感じだ。とかく話は誇張されるものだ。せいぜい100~200騎が討ちあいしたのではないか。

鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代には、織田・今川両勢力の接触地点が設けられた。江戸時代には、木綿の鳴海絞が東海道の旅人に名産品として売られた。

本陣 1、旅籠 68軒、人口 3643人。
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by princetown | 2005-12-25 15:50 | 日記、一般
江戸より34番目の宿 日本橋より約289km

吉田と言われても、いったいどこに存在するのか。いまのわれわれは豊橋と言うとすぐ分かる。
大体この吉田周辺の地は鎌倉時代には東海道の往来が盛んだった。

広重の「豊川橋」の絵を見ると、吉田城がまさに完成直前。とび職人が足場を作り、天守閣の工事をしている。

豊川は大きな川で、江戸時代には大きな帆船が出入りしていたと言う。近くの保存館には当時の「問屋場復元模型」があり、繁盛していたことがしのばれる。

飯盛り女の多いことでもしられ「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が」と当時謡われた。 

本陣2、脇本陣1、旅籠65。東海道としては、大きな宿場のひとつだった。
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by princetown | 2005-09-07 16:51 | 日記、一般