よせばよいのに、京に向かって


by princetown

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日本橋から約444km

土山宿から西へ約10km。水口宿の歴史は古く、縄文時代晩期の土器が出たと言う。
室町時代に、この宿村が伊勢神宮参宮として設けられた。1585年(天正13)豊臣秀吉が大岡寺背後に大岡上を築かせた。ただし、関が原の戦いで落城。徳川氏は、水口を直轄領とした。
国道を越えて100mほどで、左に本陣跡。三筋の通りに多くの旅籠が軒を連ねていたという。

大岡寺の参道入り口には、鴨長明の碑がある。本尊の十一面千手観音立像、阿弥陀如来立像がある。境内には芭蕉句碑「命二つ中に活たる桜かな」がある。

人口: 2692人、 家数: 692軒、 旅籠: 41軒、 本陣: 1軒。 
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by princetown | 2007-08-31 16:51
日本橋から約435km

この宿は、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場だ。歩いて峠を行くのはとても大変なので、ここはトンネルを抜けることにした。滋賀県に入る。

宿は、箱根峠を控えた小田原や三島のように繁盛したらしい。

土山には、本陣が二つあった。右側手前の土山宿本陣と少し先の大黒屋本陣。土屋本陣跡は民家として現在もそのまま残っており、黒漆喰塗りの壁に、籠目格子造りと呼ばれる、旅籠独特の造りととどめる。土山宿本陣は、1634年、徳川三代将軍家光の上洛に際して設けられ明治3年(1870)まで続いた。

人口:1505人、 家数:351軒、 旅籠:44軒、 本陣:2軒
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by princetown | 2007-07-04 12:48
日本橋から424km

初めは文字通り鈴鹿峠のすぐしたにあったが、1650年の大洪水で宿場は流されてしまい、約1.1kmほど東の現在地に移転。いまは農家が数軒だけある。裏手の山が名勝・筆捨山。あまりの素晴らしい景観に、絵師は筆を捨てたので、この名前がついたのだという。

旅籠:48, 本陣:3、  家数:48、 人口:564.
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by princetown | 2007-05-02 09:24
日本橋から410km

東海道は、亀山市街へと入っていく。本町2丁目は亀山城江戸口門跡があり、東海道は右へ緩やかに折れて、大手門跡から左へ折れる。「亀山に過ぎたるもの」の一つに数えられた堂々たる門がある。

亀山城址 今は石垣の上に多門やぐら、堀、土居の一部が残っている。城のやぐらや城壁がまるで蝶が舞うように見えることから、かって胡蝶城と呼ばれた華麗な城郭であった。東海道から一本北へ入ったところに亀山藩家老職の加藤内膳家の侍屋敷の長屋門と土蔵が残り、長屋も復元されている。

人工: 1549人,家数: 567件、旅籠: 21軒、本陣: 1軒 
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by princetown | 2006-11-30 14:55
日本橋から403km

石薬師宿を出てまもなくこの宿に到着した。上野一里塚を過ぎ、田んぼの中をくねって、いったん国道1号へ出る。記録によれば、東海道でも二番目に短い。そして、宿の成立はもっとも遅く寛永元年(1624)。安藤広重の「庄屋の白雨」が有名だ。右に笹が生い茂り、細い道を京に向かう旅人5人。唐傘を持つもの2人。箕笠かぶりで急ぐもの3名。強く降る雨。宿は近いのだろうか。
案内の標識は、庄野集会所前の「本陣跡」の石柱だけ。その南側に高札所、つづいて脇本陣・楠家、また本陣の手前の路地には問屋場があった。
当時の人口: 855人、 家数: 211軒、 旅籠: 15軒、本陣: 1軒。
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by princetown | 2006-11-17 13:45
日本橋から約389km

伊勢湾をぐるりと回り、桑名宿を過ぎたところがこの「四日市宿」だ。今では海岸線が埋め立てられて臨海コンビナートなのだが、往時の四日市はどんなにさびしいところだったか。安藤広重の絵によれば田んぼのあぜ道を、雨の中、箕のがさを着て蛇の目笠を斜めに歩く旅人が一人二人・・・・。

四日市は湊と市場から発達した。市場は浜田氏の浜田城築城のおり整備され、五箇所で定期市が開かれていた。やがて毎月、四日を初めとしてつき6回の市が開かれるようになり四日市の名が付いた。

石造りの道標で「すぐ江戸道」、「すぐ京いせ道」。文字の上に矢印がある。伊勢と別れて、いよいよ京都が近くになってきたのだ。ここは「日永の追分」。

本陣 2、旅籠 98軒、 人口7114人。
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by princetown | 2006-05-01 11:44
江戸から42番目の宿 約377km

宮宿と桑名宿には大きな伊勢湾が横たわっていて7里あった。渡し舟で来るのだが、今は仕方がないのでバスで伊勢湾をぐるりっと回るしか方法が無い。

桑名は『日本書紀」に出ているくらいなので古い町だ。平安時代から桑名神社を中心として、自由な都市が形成されて、商人の港町としてにぎわった。確かに、木曾、揖斐、長良の3大川落ち合う水陸の要衝の地。

この地は伊勢の国。船から下りた旅人は、いよいよ「お伊勢参り」の第一歩と感じたことだろう。翁鳥や常夜灯が並び、本陣、脇本陣、問屋場が立ち並んでいた。
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by princetown | 2006-03-18 13:03
江戸より41番目の宿 江戸より349km

この宿場は名古屋の熱田神宮より南1kmほど。熱田神宮参詣者が多いことから1601年、東海道の宿駅制度が整備されてから規模はどんどんと大きくなり、名古屋方面と桑名への渡船場への分岐点となっており、人口は10342人、旅籠248軒、本陣2.驚くことに飯盛り女が数百人と賑わったという。

折角来たのだからと皆で熱田神宮へ。境内は広々としていて松が鬱蒼と茂る。熱田神宮境内案内図を見ながら一番奥の本社殿に着いた。案内板は、名古屋熱田ライオンズクラブの寄贈だ。

宮の渡し公園。桑名への七里の渡し場跡。常夜燈が復元されている。昔、渡しで桑名まで7里、27km。広重の絵を見ると、船は一枚帆の和船、40-50人乗り。朝さ4時から夜4時まで運行していたのだそうだ。風まかせだが対岸の桑名へは、2-3時間で到着したという。
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by princetown | 2006-01-20 12:40
江戸から39番目の宿 

本陣1、脇本陣1、旅籠35.
町の中に大きな立て看板を発見。「知立市 観光めぐり」と書かれていて、観光地図が分かりやすく描かれていた。
物の本に、「ちりふの町の右の方に長き池あり、神の池なり。鯉・鮒・多し。依って名と成すと伝えられる」。

知立問屋場跡の看板を見つけた。無量寿寺はかきつばたで有名なところで、平安の歌人・在原業平がこちらを訪ねたとき、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびおしぞおもふ」と詠んだ。

その業平の木造を安置した無量寿寺。周辺は5月になると池全体が紫色に覆われる。

やがて古木が良く残る松並木がある。これが有名な知立の松並木。
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by princetown | 2005-11-28 18:07
江戸より38番目の宿 (江戸より約318km)

名鉄名古屋線に沿っていた東海道は、岡崎に入ると少し離れて北側に蛇行する。
この岡崎は何しろ徳川家康が浜松城に移るまで本拠にしていた城下町だ。家康は外敵から守るために街道を直線で結ばず、少し進むと右に曲がり、左に曲がり、地元民でも分からなくなるほどなので「二十七曲がり」と呼ばれていた。

岡崎宿には本陣,副本陣跡があり往時は、伝馬制度がしかれて、公用で旅するものには、伝馬80、人足297人、駕籠100挺が常備されていたと言う。

街道沿いには、「東海道岡崎宿 西本陣跡」や史跡・太平一里塚」の案内板が建っている。岡崎城跡は、現在「岡崎公園」となり、岡崎城が復元された。

公園にはからくり時計が立ち、浄瑠璃姫が飛び出してくる。

お腹が空いたので、茶店「いちかわ」に入った。八丁味噌田楽と素朴な菜飯の組み合わせだった。味噌田楽は、香ばしく焼いた豆腐に八丁味噌ベースのたれをぬったものだ。八丁味噌の歴史は古く、戦国時代には兵士の糧食としても珍重されたと言う。 
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by princetown | 2005-10-21 13:50